moetudukeruonnaのブログ

娘が罹患した失統との闘い

病人が病人を看る恐ろしさ

バセドー病は 大した病気ではない。
しかし、「心と躰は繋がっている」
その恐ろしさを 身を持って体験してしまった。


同じ病いを持った他の人が どんな心理状態になったのか は皆目知らない。
私の場合は とにかくやる気満々になった。
正常な判断が出来ず、一度思い込んだら 考え直すことなどさらさら無い。
認知症の父親の介護を最優先させた。


娘の 奇妙な言動は、認知症の前では霞んでしまった。


「これで地代を払いに行こう!」と500円玉をわしづかみに掴んで
地主さん宅へ行こうとする父親。
⇒「うん、それもいいけど そんな数多く500円玉を持っていったら
向こうに迷惑をかけるから、私の持ってるお札に替えて 後できっちり持って行っておくわ」と対応に苦慮する。他人にも迷惑をかけず 且つ父親の人格も尊重する方法を いつもいつも その場その場で知恵をしぼった。


お福が「黒い車が後をつけて来た」と言って来ても
若い女の子の独り歩き、そんなこと無きにしも非ず と
グルっと廻りを見回して、「大丈夫!、そんな不審車はうろついてないよ」と
重大な被害妄想を見過ごしてしまう。


ラジオの人生相談を聴いていた時、偶然 お福に似た年恰好の女の子を持つ母親からの相談、家でゴロゴロして何もしない…回答者の先生が
「大丈夫ですよ。疲れているだけです。ゆっくり休ませてあげて下さい」と答えているのを聴き、やっぱりそうなんだ!休ませるのが答えなんだ!と思い込んだら
もう 最後に近い。。


他府県に住んでいる私の姉も 時々 認知症の父親を見舞っていて
そんな折りに、お福の様子をかいつまんで話しをしていたが
私が「休ませるのが一番!」と言い切っていた時
「え?誰がそう言った?」といぶかっていたのが脳裏の底にある。


お福の精神的な不具合の正体を見つけ、一日も早く適正な治療を施す、
もし あの時、 私が認知症の父親を抱えていなかったら 出来たかも知れない。
もし あの時、 私がバセドー病を発症していなかったら 出来たかも知れない。

我慢強さが仇となる母親自身の病

話しは2年程 さかのぼる。
お福は まだ健常で、簿記や医療事務の勉強をしていた頃だ。


ある夏の日、実家で独り暮らしの父親から「SOS」の電話が来た。
「具合が悪い。来てくれるか?」


車で10分、私はすぐに駆けつけた。
脱水症状を起こし 道路で意識をなくして自転車で倒れた、と言う。
実家の向いの奥さんが付き添ってくれていた。


その日以降 私の介護生活が始まる。都合がいい事に、私の仕事は前年に辞めていた。
この父親から 食べるに困らない不動産を既に貰っていたのだ。
加えて パートやバイトも掛け持ちで働いてきたからこそ、夫との別居が可能だった訳である。
私にとっては尽くしても尽くしきれない父親、そう思っていた。


認知症の症状が垣間見れた。
難聴も在った。
私は大声を張り上げて父親と接し、ボケた頭には決して逆らわず
そのボケと話しを合わせながら身の回りの世話をした。
「証券会社に〇〇の株を盗られた」⇒一日掛けて証券会社の担当者に問い合わせをする。
「お風呂屋さんに行く」⇒5時間ほど一緒に開店まで 外の椅子で待つ。
今から思うと、かなりのストレスを受けていた筈だが
そのストレスに自分で気付かなかった。


介護を始めてから半年くらい経った頃、声がかすれる異変を感じていた。
ジムに通っていたが、毎日 蕁麻疹が出るのはジム通いのせい、
下痢は 元々 下しやすいお腹のせい、
息切れは加齢のせい、喉の異変は父親の難聴のせい、
体重が減ったのもジム通いが功を奏したからだ、
・・・ジム仲間が医者行きを勧めていたが、更年期はこんなものだろう
と高を括っていた。しんどくて当たり前 と。


片脚の悪い父親の認知症がジワジワ進み、もはや独り暮らしは無理
老人ホームに入れてしかるべし…
色々 あちこち奔走して、「血液検査の結果が悪かったらしい。お医者さんが 療養の必要有り、って言ったわ。療養所に行こう!」とだまして老人ホームに父親を託したっけ?


その日が 先に記載した お福からSOSを受信した日でもある。


毎日、車で片道20分 老人ホームに通って父親に顔を見せ
帰ってきては お福・次郎の為に食事作りに精を出す。土・日には太郎も来る。


自分の中では、ホーム通いが毎日の宿題、
お福をゆっくりニートで休ませるのが 母親の仕事、と思い込んでいた。


そんな私自身が 甲状腺機能亢進症で、しかもかなり数値が高い、
と判明したのは 泌尿器科で「頻尿」の治療を受けていての血液検査の結果だった。
すぐに専門の医師を紹介してくれた。


今 思うに…既に介護鬱にもなっていたのだろう と思う。
変に思い込みが激しく、神経質になっていた。欲しいと思った物は、絶対 手に入れるまで走り回っていた。
お福は 存分に休ませさえすれば 必ず治る、そう思い込んでいた。

統失のトの字も知らなかった母親

お福を連れ帰り 自分では大満足だった。
狭小住宅にも関わらず…
あと 太郎を手元に置いておきたかったくらいだ。


お福は様々な妄想を語ってくれた。


「自分が尾行されてる感じがする」
⇒「まさか!( ̄∇ ̄) 福ちゃんが国の要人ならともかく、そんな普通の人の後を誰が付ける?ハハハ!」


「お医者さんも暴力団も警察も みんな繋がっている」
⇒「そりゃ 映画の観過ぎやで!( ̄∇ ̄)ハッハッハ」


「この部屋には盗聴器が仕掛けられてる」
⇒「じゃ、筆談にしよう!」実際、筆談の手段を取った。


「薬には麻薬が混ぜられている。飲まずに自力で治す」
⇒お福の自己管理を信じて疑わなかった私は、 ま、風邪薬を略する様に
それもありかな?と思いながらも、、密かに棄てられた薬の袋を ゴミ箱から拾うぐらいが関の山だった。


『不眠症』とだけ は知っていた。
ちゃんと自己管理出来ている、と思っていた。
鬱は心の風邪ひき、ゆっくり休ませれば やがて治る…そう思い込んでいた。
変な事言うのも ただ疲れているだけ、こっちの家に来たからには ゆっくり休ませてやろう。あんな夫の元に居たのが悪かったのだ、と夫を悪者にした。

典型的な陽性症状だったのに

私と次郎は すぐに出動した。


コンビニで 確かにお福は待っていた。傍には太郎も居た。
いったい どうしたのか全く分からなかったが お福は言う。
「お父さんと太郎に誘拐されて、外国に売られそうになった」と。
だから自分で救急車を呼んだ、と。
???
太郎に聞くと「救急隊の人が『お姉さん 精神病に掛かった経験ある?』と訊いてきた。医者に行った方がいいと思う。」と。


取りあえず お福と太郎を車に乗せて、既に夜だったが お福が通院していた精神科に直行した。
そう言えば、以前からお福は 不眠症の薬を飲んでいたっけ?
私は 彼女の能力を信じて疑わなかった。自己管理のできる娘だと。


精神科は予測通り 閉まっていたが、中からかすかな話声が聞こえる。
多分 カウンセラーの人達がまだ残ってミーティングをしていたのだろう。
だが ドアをノックしても誰も出て来なかった。
「すみませーん!!」と大声を張り上げて人を呼ぶ次郎が頼もしかった。


お福の知っているカウンセラーの女の人が出て来て、鎮めるかのように「必ず治りますから。気長にお薬を飲んでいたら必ず治ります。」


何も知らないくせに それで納得した私はお福を連れ帰り
其処から 彼女の長ーーーいニート生活が始まった。

はじめに ブログを綴る目的

このブログは誰の為でもなく 自分の為に熱中できる物、見ぃ~けッ!
そんな感じで記載する。


統失に罹患した娘から眼をそらして ただただ自分の趣味に没頭する。楽しむ。
おそらく その方法が一番 娘の病気を快方に向かわせると信じている。


人生 働くだけが能じゃない。遊んで何が悪い?
楽しんで何が悪い?
「人の役に立つことが生きがいになります」
え?、じゃ 人の役に立たなければいけない?


そんな苦しい規範意識に囚われる必要はどこにも無い。
生産活動をせずに遊んで暮らしてもいいんじゃね?