moetudukeruonnaのブログ

娘が罹患した失統との闘い

我慢強さが仇となる母親自身の病

話しは2年程 さかのぼる。
お福は まだ健常で、簿記や医療事務の勉強をしていた頃だ。


ある夏の日、実家で独り暮らしの父親から「SOS」の電話が来た。
「具合が悪い。来てくれるか?」


車で10分、私はすぐに駆けつけた。
脱水症状を起こし 道路で意識をなくして自転車で倒れた、と言う。
実家の向いの奥さんが付き添ってくれていた。


その日以降 私の介護生活が始まる。都合がいい事に、私の仕事は前年に辞めていた。
この父親から 食べるに困らない不動産を既に貰っていたのだ。
加えて パートやバイトも掛け持ちで働いてきたからこそ、夫との別居が可能だった訳である。
私にとっては尽くしても尽くしきれない父親、そう思っていた。


認知症の症状が垣間見れた。
難聴も在った。
私は大声を張り上げて父親と接し、ボケた頭には決して逆らわず
そのボケと話しを合わせながら身の回りの世話をした。
「証券会社に〇〇の株を盗られた」⇒一日掛けて証券会社の担当者に問い合わせをする。
「お風呂屋さんに行く」⇒5時間ほど一緒に開店まで 外の椅子で待つ。
今から思うと、かなりのストレスを受けていた筈だが
そのストレスに自分で気付かなかった。


介護を始めてから半年くらい経った頃、声がかすれる異変を感じていた。
ジムに通っていたが、毎日 蕁麻疹が出るのはジム通いのせい、
下痢は 元々 下しやすいお腹のせい、
息切れは加齢のせい、喉の異変は父親の難聴のせい、
体重が減ったのもジム通いが功を奏したからだ、
・・・ジム仲間が医者行きを勧めていたが、更年期はこんなものだろう
と高を括っていた。しんどくて当たり前 と。


片脚の悪い父親の認知症がジワジワ進み、もはや独り暮らしは無理
老人ホームに入れてしかるべし…
色々 あちこち奔走して、「血液検査の結果が悪かったらしい。お医者さんが 療養の必要有り、って言ったわ。療養所に行こう!」とだまして老人ホームに父親を託したっけ?


その日が 先に記載した お福からSOSを受信した日でもある。


毎日、車で片道20分 老人ホームに通って父親に顔を見せ
帰ってきては お福・次郎の為に食事作りに精を出す。土・日には太郎も来る。


自分の中では、ホーム通いが毎日の宿題、
お福をゆっくりニートで休ませるのが 母親の仕事、と思い込んでいた。


そんな私自身が 甲状腺機能亢進症で、しかもかなり数値が高い、
と判明したのは 泌尿器科で「頻尿」の治療を受けていての血液検査の結果だった。
すぐに専門の医師を紹介してくれた。


今 思うに…既に介護鬱にもなっていたのだろう と思う。
変に思い込みが激しく、神経質になっていた。欲しいと思った物は、絶対 手に入れるまで走り回っていた。
お福は 存分に休ませさえすれば 必ず治る、そう思い込んでいた。