生活を楽しむ後ろ姿
病院で 肺炎を引き起こしたり、健気にも 治ったり、また肺炎になったり
意外にも治ったり・・
を繰り返していた父が あの世に旅立ったのはお福をマンションに迎えてから
2年後の冬だった。
体質が強いせいもあったのだろう。よく 頑張ってくれた と思う。
私の甲状腺眼症も治療が終わり、見えづらさが後遺症として安定(?)し、
眼科にはドライアイ用の目薬をもらう為だけの通院 となっていた頃である。
臨終には二人の姉達もきっちり 寄り添っていた。
上の姉が父に向かって「ありがとう!ありがとう!」を連発していた。
下の姉も「ありがとう!ありがとう!」と。
しかし、私は胸いっぱいで言葉が出なかった。
いつも「雄弁は銀 沈黙は金」「以心伝心」を良し と教えていた父である。言いたかったが言えなかった。
気のせいか治療を終えた筈の右眼がうずいていた。正直言って、もうこれ以上厄介な病気を持って来るのはやめて欲しい気持ちもあった。
「ありがとう」の言葉掛けをしなかった点で 姉から攻められたが
私は ただ黙って姉の怒りが静まるまで待つしかなかった。
遺産の残りは全部 上の姉が持っていった。私は、父の財産を全額は使い込まなかったのである。今でも不思議に思っている。
一番父親の近くに住んでいた私が 父の介護を始めた時、上の姉は
「(下の姉の名)ちゃんも、もう 財産は全部 蔦ちゃんがもらったらいいから、って言ってるから」と さも自分も 同意している様な雰囲気を漂わせていたのである。
毎晩7時になると上の 姉から電話が入る。姉宅は夕食や片付けの終わる時間帯である。
父の生活援護に関して、上の姉は 私に様々な指令を出した。
「要らない物はどんどん捨ててね」「証券会社に残っている株は売却しといてね」
「駐車場を貸してくれている青空さんには 何か買って お礼を渡しておいてね」
ちょうどこっちの家が夕食に入る時間帯である。約30分。
何度も こっち側の夕食時間を告げても 7時に掛けてきた。私の食べる夕食はいつも冷めてしまっていた。
そしてまた、上の姉も 下の姉同様に 自分の身体を犠牲にしてまで
父を見舞うことは無かったのである。当時 私と同じく体調の思わしくない上の姉は、はっきり言っていた。「私は病気だから行きたくても行けないのよ」と。
しかも 姉は車は運転できない。亭主さんをアッシー及び助手に こき使って父を訪ねるのであった。
しかし、本当に人間とは勝手なもので…上の姉は 私が父の財産を使い込んだ時
「アンタのやった事(介護を意味する)は そんなに値打ちのあるもの と思っているのか!?」と私を罵倒した。
おそらく、上の姉も私のしんどさには気づかなかったのだろう。
お互いに 自分の行った功績は覚えているけれど 相手の貢献には気づかないものなのだろう。そんなものとは思いつつも…あの言葉は忘れられない。
幾つかの法要の後
私は新しい趣味を見つけた。
部屋に棚を作って 様々な木工作品を作る趣味だった。
誰に習うでもなく、ハンド鋸や 彫刻刀・サンドペーパー・ニスでインテリア小物を作り上げる。木材は近くのホームセンターで調達する。モノ作りの好きな私には 持って来い の趣味だった。
外出しなくていいから 交通事故の心配も無かった。
その木工細工をしている時間、私は 嫌な事は全て忘れて趣味に没頭することが出来た。
お福は「楽しそうやなぁ」と眺めていた。
これだ、と思った。私が生活を楽しめばいいのだ。
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