moetudukeruonnaのブログ

娘が罹患した失統との闘い

医師免許を持った人 その② 中編

お福はこっちの家に来てから、実に様々な まことしやかな妄想を話して
私を動かせた。


医学部を受験したい、と言う。「お母さん、大学の資金を出してくれるか?」と。


私は「うん!国公立の学費ならなんとか出来ると思う。あと 問題は生活費だけど これは合格したらお父さんに頼むワ。」 
私は多分 無理だと思ったが 父の認知症に付き合ったのと同様の対応をした。


やる気がある。何か好きなことをやればいいんだ。
その夜のうちに赤い試験問題集や参考書を数冊、一緒に買い物に行った。
お福はいっとき問題集を開いたけれど すぐに自分でも現実を受け入れた。


ある時には折り紙の通信教育を受けた。
意外と これは続いた。手先が器用だったのか、彼女の折る折り紙はきっちり折れていて
最後の添削まで進み、家には綺麗な折り紙があちこちに飾られた。
私は大いにお福を褒めたたえたものである。


医学部がいつの間にか頭から消え…英語の外語専門学校へ行きたい と言い出した。
オープンキャンパスの その当日には同行できないけれど
その学校まで 実際に行って外から見学ぐらいは出来る。
電車を乗り継ぎ、三校を見て回った。


しかし、学校を見て回っている途中、喫茶店で一休みしていた時
お福は「誰かが後をつけて来ている」と言った。
私は 疲れが妄想を生むのだ と勘違いの確信をしたものだった。



バセドウが そうさせたのだろうと思うが
私は 父親を とにかくいつも快適な状態で過ごさせたい と思っていた。
老人ホームで熱中症らしい症状を発し、病院に緊急入院となった時は
そんな状態にしたホームの責任を追及したい欲求にかられたが
まずは 父親への看病を優先すべき、と毎日 今度は入院先の病室を訪れた。


しかし、反面 心理的には どんどん父に接するのが怖くなっていった。
心臓がバクバクした。
父は今にも死ぬんじゃないか?
父が死の間際に立っているように思った。
父の苦しさは私の苦しさ、父の痛みは私の痛みだった。
病室に入って 父に触るのが怖かった。
姉は臆することなく 父の顔を拭いたりしていたが
何故 あんな平気でいられるのか 不思議だった。


甲状腺の医者に助けを求めた。「病院に行くのが怖いんです」
「じゃ 一応安定剤を出しておきますが、望むなら精神科を紹介します。
三人ほど知り合いがいますが、場所は遠いですが この先生は日赤の医局長だった人です」


医師免許を持った人 その②を紹介してくれた。


遠くても構わない。少々の不便は屁とも思わない。
日赤の医局長を勤めたほどの先生だ、きっと名医に違いない!
海に近く 真新しいクリニックだった。
私は 自分の精神面を診てもらうのが主たる目的だったが、
そこでお福の件も相談した。

医師免許を持った人 その② 前編

お福を迎えてからも、私は父親関連で使命感に燃えていた。


上の姉から実家を綺麗に整備整頓するよう指令を受けていたのだ。
父親を老人ホームに送り込んだ後、主の居なくなった実家。
戦争を体験した人は 物を捨てない。


何十年も前に、まだ母が存命している頃に買い換えて不要になったトイレのスリッパさえ 物置に大切にしまい込んでいた。
私達姉妹が子供の頃着ていた 木綿のワンピース三着をはじめ、40年も前からの子供服、未使用のまま 染みのついたシーツ類・ゴムの伸びた靴下・虫に穴を開けられた毛布類、ラクダの股引などの下着類…数え上げればきりがない。
まだガス風呂に替えていなかった頃のマキ木・炭・練炭。
お餅を入れる何層にもなった木製の箱。


それほど上等でもないシリーズ物の食器類、それを収納する為の三台の食器棚。
箪笥も数棹。私達姉妹が使っていたベッド・机・本棚もまだ処分していなかった。
その上に 父親は収集癖もあったので、空のベッドの上には様々な物が積み重なっていた。
公園から拾って来た、空気の抜けた大小様々なボール。忘れ物の傘50本以上。
普通のゴミ置き場から拾って来たであろう破れた衣服類。
粗大ごみ置き場から拾ってきた椅子・ソファ。


自転車に至っては16台ほど拾って来て 物置や庭に所狭しと保管していた。
錆びた工具や様々な剪定用の庭道具は もはや使い物にならなくても別の物置に入れていた。


他府県に住む上の姉は「要らない物はバンバン捨ててね」簡単に指令を出した。


お福の世話・実家の整理、ゴミ出し・父との面会・ジム通い…
急速に私の躰の【更年期障害】(?)は進んでいった。


蕁麻疹→新婚の頃も蕁麻疹が盛んに出ていたが それよりも粒が大きかった。単なる疲れ・冷え(新婚当時 夫は、それは冷えボロだと言ってのけた)と解釈していたが…
手の震え→実家の庭木の手入れのせいだろう と解釈していたが…
毎日続く下痢→更年期障害の症状の一つだろう と解釈していたが…
不眠→更年期障害の症状だと解釈していたが…
息切れ→加齢によるもの と解釈していたが、この「息切れ」が私に検査を決断させた。毎日ジムで鍛えているのにゴミ出しくらいで息切れするのは筋が合わない。


当時は「頻尿」が気に入らなかったので泌尿器科でソレ用の薬を貰い、睡眠薬も処方してもらっていた。医者にしんどい旨を告げた。
念の為 と血液検査をしてくれた。
後日「まさかと思いましたが、念の為甲状腺ホルモンの数値も調べたところ異常値が出ました。貴女の年齢でこの病気は珍しいですが専門医を紹介します」


甲状腺・糖内科の医院を紹介してもらったのは 今から12年前のことである。
認知症の父親の介護を始めて2年程経っていた。


頻尿・頻脈・運転する時視界が暗くなってくる…
心理的には ヤル気満々で 特に家族を守る為にはとことん頑張ろう!と言う気になる。
甲状腺の専門医は「今、貴女の神経はピリピリに尖った状態です」と万年筆を逆さに向けて説明していたっけ…


この医者が「医師免許を持った人 その②」を紹介してくれた。

医師免許を持った人 その①

衣・食・住の基本的な人間の営み
その生活を お福がノンストレスで送ることが出来るよう
私は 父親をもホーム任せにせず まめに面会に行き、自分の趣味であるジム通いも欠かさず…
毎日 走り回っていた。
まだ 自分の病気バセドウに気づかず、己のことは後回しにして。


お福は毎日 妄想を言っていた訳ではない。
こっちに来てからは穏やかな引きこもり生活を送っているように見えた。
太郎が泊まりに来ても 変な妄想を投げたのは一回きりである。


しかし…やはり どこか具合悪そうだった。
医者にもらった薬も飲んでいる気配がない。
他の医者でも診てもらおう。完璧主義と言うほどでもないが、私はベストを尽くしたかった。
別の「心療内科」に連れて行った。女性の名が看板に書いてあったので
女医の方が胸の内を明かし易いだろう と考えたし なんとかセラピーみたいな近代的なカプセルも設備している。何か良くなる方法があるかも知れない。


私はお福を女医の前に差し出して「お願いします。」


ココで私は大きな思い違いをしていた。医者は偉い、患者を見せさえすれば悪い処がすぐ判るだろう と。
車検とか 健康診断みたいに、ポンと前に患者を置けば悪い箇所を発見して治してくれる…そのように考えていた。


それに元来 私は無口な方である。「雄弁は銀 沈黙は金」と父親から教えられていた。女は慎ましくしとやかに…素直が一番。つまり自己主張はあまりイイ事ではなかった。
お福の被害妄想の様子は何一つしゃべらなかった。なにより、私的には「単なる思い違い」で済ませていたのだ。


女医とお福の間で問診が行われていた時、お福が「親に捨てられそうな感じがする」
と女医に訴えた。(*_*;!、びっくりした。そう言えば冗談めかして そんな事を私にも言っていたのを思い出した。
そう そう 其処!其処!
そんなことあり得ないのに、「じゃ、何故そんな感じがするの?」「どんな考えから その様な結論になるの?」…当然 医者は謎解きを進めてくれるだろう、と期待した。


が、、その若い女医は母親の私に 矛先を向けて来たのである。
「お母さんは その言葉を聞いて どう答えたのですか!?」と詰問してきた。
ん?、あの時? はぁ~ん・・としか反応してなかったような…。
私は頼りなげに「ふぅ~ん、と言ったと思います」
あろうことか 女医はキツい口調で「お母さん! そんな時は嘘でもいいから 絶対に棄てたりなんかしないから!、と言うべきなんです!」


え?、我が子に嘘なんかついてもいいの?


子育ての経験のない女医だ、と直感した。


案の定、女医が下した結論は「まだ若い女性なので、今後 妊娠の可能性も考慮に入れてキツい抗精神病薬は出さずに 頓服的に使う安定剤を出しておきます。気分が悪い時だけ服用して下さい。毎日服用する必要はありません」

自分の手元にお福を迎えて②

統失は本人に病識がないのが症状。
多分、其処が致命傷 と私は思う。


その頃 私は精神的な病と言ったら「うつ病」しか知らなかった。
上の姉が、うつ病とは高熱が出ている状態 と考えたら分かり易いヨ、
ほら 何をするのもしんどい状態、って考えたら分かるでしょ?、と。


単純な私は 「なるほど そう考えたら分かり易い」
食事も用意しておいて お福には自由気儘にニートをさせた。
ちょうど次郎が専門学校を終えて こっち(私の狭小住宅)に帰り
もう仕送りしなくてもいい状態になったので、
フリーターの次郎からは生活費を徴収したが、病人からは徴収せずに 束の間ではあったが、ほんのしばらくは三人暮らしだった。
お福は次郎にも険悪な顔を向けて「わたしの行動を見張ってるんやろ?」と言う。
次郎「はァ!??、思いっきり福ちゃんの思い違いやで!」


彼女は、土・日に泊まりに来る太郎にも「わたしが警察に行かんように見張りに来たんやろ?」と矢を向ける。
(夫の商売で申告がほにゃららなのを いつもお福は気にしていたらしい。夫の元でも変なコトを言っていたらしい…『警察に言わんとあかん』と)
お福の頭の中では、申告漏れを彼女が警察にチクりに行くのを阻止する為に 太郎が泊まりに来た、と言うストーリーだ。


普段は 私は兄弟げんかには決して口を挟まなかったが、そんな時だけは「それは思い違いで 太郎が〇〇家にとって不利益になる行動をする筈がない」と理論で制したが、今から思うと 彼女は決して納得できていなかったが、母親の意を汲んでおとなしくしたのだろう。


しかし そんなこんなも 「高熱ゆえのうわごと」と取っていた私は神経質な割りには まったく無神経な母親だった。


次郎は「田舎での独り暮らし」を計画していたが そんなお福の状態を見て
「僕、田舎へ行ってもいいか?ここに居てなくてもいいか?」と私とお福を案じてくれたが、私は あっさりと「う~ん、あんな変なこと次郎君に言うくらいだから むしろ出て行った方がいいんと違う?」と言ってしまった。
兄弟仲が悪くなるのを避けたかった面もあるが、自分一人の力でお福を治す自信はたっぷりあったのだ。
次郎は安心して「田舎での独り暮らし」に旅立って行った。

自分の手元にお福を迎えて①

「助けて!」
「お父さんと太郎に誘拐されて外国に売られそうになった」


そう言うお福(27歳)を迎えて 私は ただただ母親業に務めた。
2階の南向きの 明るい広い部屋をお福の部屋とし、
上げ膳据え膳…洗濯…掃除…買い物はもちろんのこと
家事いっさい面倒をみた。と言うよりも「親が子の世話をするのが当然」の子育て期間と同じだった。


以前、医療事務のパートを急に辞めて 夫の商売の手伝いを始めたことは夫から聞いて知っていた。
夫は電話の向こうで「勝手な奴やで(`´)、ある日 急に『今日からお父さんの手伝いするから』て言ってきて パート辞めて来て<`~´>」と言っていたっけ。。


まぁ そんなトコだろう。夫は それより前にお福に異変が出て、お福が不眠症になっていても 何の心配もせず、何のいたわりもしなかったに違いない。お福はお福で 彼女なりに病識なく 懸命に家事とパートをしていた、と私は思う。
次郎が学生マンションに住まうようになってから ほぼ2年間 毎晩 こっちに泊まりに来て
早朝5時頃 起きて、夫の元に戻り パート勤めをしていたのである。
私が「そんなに毎朝 早く起きて、向こうの家にも行って仕事して…躰 大丈夫か?」と訊いた時、お福は「やり出したら止まらんようになるんヨ♪」と やめようとはしなかったので、私は私で「まだ母親恋しいのかな?」と勝手な勘違いをしていたのである。


医療事務のパートを「いじめられたから」と辞めたのが25歳…おそらくお福は その頃 統失を発症していたのだ。