moetudukeruonnaのブログ

娘が罹患した失統との闘い

日本の「恥の文化」の哀しさか…

今度は涙なんか出なかった。泣いている場合じゃない。
何としてでも お福の病気を治さねばならないのだ。


泌尿器科の医者が「バセドウの人は感情の起伏が激しい」と言っていたが
そうかも知れなかったが 私は全精力を持って戦闘態勢に入った。


統失の本を三冊買って熟読した。
もちろん、②の爺ぃの【受診】後、その日の内にお福をマンションに連れて来た。
②爺ぃの、一年半にも及ぶ誤診を訴える事も頭をかすったが
それよりも先にお福の治療と 寝たきり老父の負荷もある。
そこまでは自分の体力に自信は無かった。


バセドウ気質が そうさせたのだろう。
私は 無知だった自分を責めて責めて責め続けた。
お福をポンと独り  前の家に置きざりにしたのだ。
高熱を出している病人を 熱帯砂漠に置き去りにした様なものである。
悔やんでも 悔やんでも 悔やみ足りなかった。


なにより…何度も その病気を知るチャンスはあったのである。


・お福を手元に迎えて2~3ヵ月、、下の姉が「とーごーしっちょうしょう」と名を挙げた時
・お福を手元に迎えて、当時 彼女が自ら通っていた精神科に車で送り迎えした時、
私はドクターに会わずに ただ待合室で待っていただけだった。一歩診察室に入ればコトの重大さが分かった筈なのである。「薬には麻薬が入れられている。自力で治す」お福は服薬しなかった。
・②爺ぃが「統合失調症と言う恐ろしい病気の可能性があります」と言った時


どの時も もし私の文化レベルが高く パソコンが使えていたなら
簡単に、気軽に ネット検索していたであろう。
生活水準の低さは 痛恨の極みであった。


本のどこかの記事によると、発症してから5年以内に治療を受けないと予後は悪い と書いていた。お福が適正な薬を服薬しはじめるまで…
夫の元での引きこもり2年、私の元での引きこもり3年弱
発症時は「パート(1年間)している時から眠れなくて、皆がザワザワ私の悪口を言ってる感じがした」
優に5年は超していた。


後年 お福に訊いたことがある。
「いつ頃から幻聴は聴こえていたん?」


お福「太郎と一緒にウォ―キングしてる頃から。」狭小住宅に居た頃だ。
「自立支援塾に行った時は一晩中幻聴が聴こえて眠れなかった」


②爺ぃの診察を受けた初診の頃は、既に幻聴は聴こえていたと言う。
「なぜ 幻聴のことをお医者さん(②爺)に言わなかったん?」
お福「そんな事言ったら、この子 アタマおかしいんじゃないか、って思われるやん」


人にどのように見られるか? 人に どう評価されるか?
私は そんな日本の「恥の文化」を 高校時代から疎ましく思っていた。
 
子育てには細心の注意を払ったつもりである。
「そんなことしたら人に笑われるよ」「ほら、人に見られるよ、恰好悪い」は 決して言わなかった。
気は付けていても、生まれた時から どっぷり そんな「恥の文化」の中で育っている。
努力しても知らず知らずの内に そんな文化を伝えていたのかも知れない。
 
七十近くの夫は 未だに その「恥の文化」の中で生きている。
子供三人が乳幼児だった頃には 手助けを頼んでも「親は無くとも子は育つ」と、 育児参加しなかった夫だが、要らぬ部分で子供に影響を与えていたかも知れない。そんな夫を選んだのも痛恨の極みだ。

闘いの火ぶたは斬って落とされる

「幻聴が聴こえる」


お福が 私に打ち明けたのは 初回 店子さんを訪問してまもなくの頃だった。
太郎が持って来た統失のネット検索の資料を読んで間無しだった。


 
                 ⦿ ⦿



愕然としながらも…、私は努めてにこやかに 且つ尊大ぶって、
「えぇえ?そうなん?
じゃ 明日 さっそく医者に行こう!
いくらなんでも幻聴は さすがの このお母さんでも治せないわ。」
お福は「幻聴って 自分で分かっているから大丈夫ちがう?」


私「いやいや 放っておくわけにはいかない。風邪くらいなら お母さんが治す自信はあるけれど、幻聴までは無理だわ」



もう 絶対 一人にさせてはいけない。その時をもって彼女を私の保護下に置いた。



あくる日、月イチで通院していた「医師免許を持った人 その②」の精神科へ行く。
私「先生、幻聴が聴こえるらしいんです」


お福はかなり詳しくどんな幻聴が聴こえるか その②に話した。
命令口調で「道を譲れ!」「だからハローワークには行くな と言っただろう!」
「家から出るな!」と男の声。
ある時には優しい女の声で「ほら、そこに食べ物があるでしょう?」
色んな人が色んなセリフを言って来るらしい。


「幻聴が聴こえてしんどい」とお福は②に訴えた。


その②は さりげない顔で、そして さっぱりとした雰囲気で
「じゃ、薬を変えましょう。今日から〇〇を××時に飲んで下さい」と薬を変えた。


診察室からお福を先に出し、私は②と話した。
「統合失調症ですよね」
その②は その統失を疑いながらも お福を診て「恐れていた病気ではない」
診断を下した日から、真面目に通院していたにも関わらず早や一年半が過ぎていた。


その②は そんな誤診など無かったかの様に
「はい、薬は一週間 今の量を飲んで下さい。一週間後 また薬を増やします。
治るまで3~4年掛かります」(と またいい加減なことを言った。実際は10年経った今でも寛解には至っていないのである)


私は その②に訊いた。
「娘にはきちんと病名を教えた方がいいですよね」
私は敵(病気)を知って闘う方がいい、と考えている。敵を知らずして どうして闘うことが出来よう?
その②は言った。
「いいえ、教える必要は無いです。知って悪いことはあっても 良いことは何もありません」


この爺さん 何を言ってるのだ!
第二次世界大戦、アメリカの装備を もし日本国民が知っていたら 誰も竹槍の練習なんかしなかった筈だ。



その人の社会的地位・肩書きが その人の実力とは何ら関係ない事を、その時 私は知った。


店子さんに「悪口を言う声が聴こえたりしませんか?」と問いかけていた 若い医師の顔が頭に浮かんだ。

天の使いだったかも知れない店子さん ③

「統合失調症」


最初 この病名を聞いたのは 下の姉から。(お福 私の元で引きこもり2~3ヵ月の頃)
二度目は 医師の免許を持った人 ②から。(お福 私の元で引きこもり6~7ヵ月の頃)
三度目は 店子さん管轄の保健所の医師から。(お福 私の元で引きこもり2年数ヵ月の頃)


詳しく知りたかったが 幸いにして太郎や次郎が助けとなってくれた。
その頃 別居している夫は会社の倒産のあおりを食って 個人で商売を始めパソコンを家に取り入れていた。ハローワークの職業訓練でパソコンを習ったらしい。
夫は今でも ネットは出来ないが、私の知らない「エクセル」や「ワード」で見積書などを作成している。


商売を始めて何年経っていたかは知らないが、太郎の身近にパソコンはあった。
「インターネット」・・何でも『検索』が出来て 色んな知識・情報が得られると言う。


たまたま次郎が太郎の元を訪ね、マンションで一人居た私とメールのやり取りをし、
「統合失調症」の情報が欲しい母親の為にネット検索で その病気のページを印刷してくれた。
太郎が 即 その用紙をマンションに持って来てくれた。


読むと…
・昔の病名は「精神分裂病」
・青年期に発症しやすい脳内物質ホルモン異常の病気
・「人に監視されている」「人に操られている」「盗聴されている」被害妄想が特徴
・幻聴、幻視が症状として表れる
・自殺願望、自傷行為もある場合がある
・病識が無いのが特徴
・陽性症状として幻覚が強く出る時期と、陰性症状として物事に対して意欲がなくなる時期がある


等々…なるほど なるほど・・
お福と症状が似ているけれど、彼女には自殺願望もなく なにより幻聴、幻覚が無い。
不眠症の薬ももらいに行くほどだ。病識がない訳ではない。



話しを店子さんの件に戻そう。


頼りになるお兄さんと共に 店子さんを病院の医者に診せた時
まず 採血、そして問診に入った。
大きな病院の若い医師は 店子さんに
「何かザワザワと自分の悪口を言う声が聴こえてきませんか?」と問うていた。
彼は「そんなことは無い」と。
問診に入ってまもなくだったと思う。「血液検査の結果が悪いんですよ」
と看護師が保健所の担当女性に訴えて来た。
おそらく その時はお兄さんの方に真っ先に血液検査の報告がなされていただろう。
お兄さんの了承による「強制入院」措置がとられた。
白衣を着た若い男性5~6人が 店子さんをとり囲み、緊張感の漂う中 彼は病棟へと連れて行かれた。
後日、保健所の担当女性は私に教えてくれた。
「性病に感染されていて入院治療が必要でした。
賃貸契約は一旦 解消して、三か月ほど入院してもらって、その後 新たに賃貸契約を結べばいいでしょう。行政からの保護になると思います。家賃もきっちり入ると思いますよ。」


大きな山場を解決できた感はあったが・・



その ぼろアパートと最寄りの駅との行き帰りの中で
私は眼の見えづらさを感じていた。視力 0,3とか1,2とかの基準ではなく…
道路を横断する時に、その見えづらさは顕著に表れたが
不審に思いながらも私は 別に気にもとめなかった。


認知症の老父と 得体の知れない病気の娘を抱えている。
その時は その「眼の見えづらさ」が、その後の私の人生で最も大きなイヤな奴になろうとは 想像だにしなかった。

天の使いだったかも知れない店子さん ②

その店子さんも 実に様々な被害妄想を私に語ってくれた。
 
金の時計も どこそこに置いていたのに盗られてしまった。
高級な食器も どこそこに置いておいたら 全部 アイツが盗っていく。
何もかも いい物は 誰かに盗られるらしい。
 
声が小さいので 聞き取りにくく 詳細は覚えていない。
その頃(今から10年ほど前)は、私はパソコンの文化とは無縁の世界で生きていたが
どこでどう 情報を得たのか…市役所に生活保護の相談を申し込むと同時進行で、
保健所にも相談に出向いていた。
 
何度か足を運んだ結果、 保健所の医師がぼろアパートの店子さんを訪問してくれた。
・電気 ガス 水道、全てのライフラインが切れているにも関わらず 食料は拾い食い 水は公園でゲットして生きている。
・物を盗られた感がいつも頭の中にある。
一時間ほど 彼の生活状況を見聞きして、後日出した結果が
「統合失調症かも知れないし そうでないかも知れない」だった。
 
物の置き方なんかは 明らかに『分裂』しているではないか?
被害妄想もある。
なんとか病院に入院させないと近隣の住民に迷惑を掛けるんじゃないか?
私は納得行かなかったが その保健所の医師は 実に冷静に彼を見ていた。
「彼自身(店子さん)は何も困っていないし、凶暴性も無い。強制的に入院させる要因はどこにも無い」
それが結論だった。
 
 
それでも 保健所の担当の女性が「一度 なんとか本人を納得させて病院に連れて行きましょう」と力になってくれた。
彼の生活保護を申請するにも 病院に連れて行くのも 店子さんの家族の協力が不可欠だった。
いつも家賃を立替えて払ってくれていたお兄さんに 私は協力をあおいだ。
「弟さん 幼少期に知恵遅れと言われたことはありませんか?」
電話の向こうは かなり驚いている様子だった。ただならぬ気配を察知したのだろう。
新幹線を乗り継いで 何年も会っていない兄弟、店子さんの様子を見に来てくれた。


お兄さんと 保健所の担当の女性 そして私とで
店子さんを病院に連れて行った。

天の使いだったかも知れない店子さん ①

現在の生活もそうだが 私は親から譲り受けた古アパートの家賃収入を得ていた。当時は老齢年金も貰っていなかったので家賃収入が主たる生活の資金源だった。
その古アパートの管理人から かんばしくない報告を受けたのは、お福に自立を強いてから数ヵ月経った頃だった。
 
以前から その店子さんの様子がおかしく、それでも遠方に住んでいる兄弟が、数年間にわたり家賃を払ってくれていたが、来春 定年退職するので もう家賃は立て替え払いが出来ない と言う。
店子さん本人の様子は と言うと…
貯金も収入もなく 浮浪者の様な生活をしていると言う。
もう既に料金滞納の為 ガス・水道・電気も止められたままで電話もストップされた状態らしい。
しかもアパートはゴミ屋敷になっている。生活保護を受ける様に勧めても 本人は全くそんな気は無いらしい。管理人としてはお手上げだと。
 
私は大いに困った。大事な生活資金源である。お福に助っ人を頼んだ。
「古アパートのおっちゃんに生活保護を受けてもらうように、一度 現地に出向いて本人に会いたいのだけど、一緒に行ってくれないか?」と。
驚いたことに ずっと引きこもりを続けていた お福なのに
「ちょうど良かったわ。やる事がなくて退屈だったから行くわ!」と明るく引き受けてくれた。
 
かくして 女二人が電車を乗り継いで 見知らぬ男を訪問することとなる。
 
本当に古い汚いアパートだった。
明らかに使わないであろう 鍋ややかん、錆びた冷蔵庫や炊飯器の類も多数 部屋の中に無秩序に散乱し、外にも荷物は溢れかえっていた。
缶や瓶もうんざりするほど部屋にうずたかく積まれ その上に汚れた布団が乗っかっている始末である。
物を拾って来る収集癖は 私の父にも見られたが、 その整理整頓の仕方が全く違っていて どう見ても異常だった。



天の恵みか 店子の男性はおとなしい人だった。



私は口下手なので多くは喋らなかったと思う。
「自分はここの家主だが 家賃を払って欲しいので生活保護を受けてくれないか?」
それだけ言ったと思う。
もう何日もお風呂なんかは入ってなさそうな彼は髪もよれて固まり、傍に立つとプンと汗まみれの体臭がくさかった。
「はい」とだけ頷いてくれたと思う。
「生活保護を申請するには色々な手続きが必要だと思うけれど 私も手伝うのでお願いします。」と頼んだ。
あと二言三言 何か喋ったが内容は覚えていない。
 
ただ印象に残ったのは 男性の話声が非常に弱々しく 蚊の鳴くような小さな声だった事である。
私は思った。お福に似ている。
お福も 狭小住宅で、色んな妄想を話している時も、何気ない日常の話し声も こちらが聞き取りにくい程の弱々しい声だった。
お福も家に帰ってから「あのおっちゃん、声が小さかったなぁ」と言っていた。自分とそっくりな口調だった事には気づいていない様子だったが…
 
 
ともかく…前進できるメドがついた。
 
その頃、父親の方は容態も安定して 療養型の病院に入っていたと思う。
父を見舞うのは相変わらず怖くて 安定剤なしでは病室に入れなかったが
私の肩には 寝たきりの認知症父親、怠け病っぽいすねかじり娘、の二人がいつも重くのしかかっていた。
 
コッチの方(店子さん)もなんとかせねばならない。
私は戦闘態勢で、何度にもわたり 電車を乗り継ぎ、 ぼろアパート・その地域の保健所・市役所に通う事となる。