moetudukeruonnaのブログ

娘が罹患した失統との闘い

趣味に燃える母

インテリア用品作りの趣味。


もう 私が ジムには無理に通わず、木工細工に夢中になっている時、
夫から求人が舞い込んだ。


夫は、商売の方はいつも他人を雇わず 家内労働で賄っていたが
太郎が 商売とはまた別畑の夜間専門学校を卒業し、そろそろ自分の希望する職に就きたい と言う。
午後から2~3時間の電話番と、デスクワーク。それと月イチの各仕入先への支払い。それだけで20万でも30万でも好きなだけ給料を取っていいから、と言う。


こんな美味しいバイトは無い。
しかも まだ太郎はしばらく 引き継ぎの間、家に居るのだ。
眼を病んだ私は、時として平衡感覚さえ失う。他人様の元では もう仕事は出来ない。
ラッキーな話しだった。


以前、私が夫とは別居状態で それでも入院費を夫に出してもらっているのを知った下の姉は「アンタはよいとこ取りしている(`´)」、と私を非難した。


上の姉に至っては…20年ほど前…
私が、低収入のくせに殿様づらしている夫に反旗をひるがえす時、
父と一緒になって 向こう(夫)の実家に押しかけ
夫に対して、「低所得のくせに関白づらし過ぎるんだ!そんなにうるさく言うなら その希望に沿う様な女性を他で探せばいいんだ!」と殴り込みをかけたのである。
それほどの姉が、 元の鞘に収まらないにせよ 商売を手伝う為に夫の元にそそくさと通う、、
そんな妹の姿を見れば面白くない事は明白である。
…何を言いだすか分からない。。



夫と よりを戻すつもりは無かったが、 Moneyを貰う気はバンバンにある。
もう姉達には 何も話すまい、と思った。



かくして 私のアルバイト先は決まった。
お福には、ほくほくのしたり顔で こう報告した。
「お父さんは機嫌よく商売をしている。うん うん、今のうちに お父さんには稼げるだけ稼いでもらおう(^^♪、んで (給料は)貰えるだけもらおう!」


太郎も居る。私は三時のおやつをスーパーで買い求め、太郎と二人で食べるのが何よりの楽しみになった。
大きな声では言えないが お福から物理的に離れることは私の心の休憩にもなった。
午前中は趣味の木工細工にいそしみ、午後からは気楽でマイペースなアルバイト。


もう、共働きで 家事・育児に身をすり減らしていた頃とは大違いの、けっこうな重役出勤だった。
夕食なんかは宅配に任せた。
好きな事をにこにこしながら行って・・、生活って楽しまなきゃ損よ、
そんな後ろ姿をお福に見せる。


眼が不自由になった失望から逃避し、お福の病気から逃避する
(いや、本当は逃避ではない。全然 心配なんかしていない、そんなフリが出来る)


恰好の趣味は数年続いた。



☆☆☆☆☆



医師に訊いてみた。
「統合失調症って本当に恐ろしい病気なんでしょうか?
私は最近になって疑問になったんですが…怖い病気ですか?」


「僕は恐い病気ではない、と思います」

生活を楽しむ後ろ姿

病院で 肺炎を引き起こしたり、健気にも 治ったり、また肺炎になったり
意外にも治ったり・・
 を繰り返していた父が あの世に旅立ったのはお福をマンションに迎えてから
2年後の冬だった。


体質が強いせいもあったのだろう。よく 頑張ってくれた と思う。


 私の甲状腺眼症も治療が終わり、見えづらさが後遺症として安定(?)し、
 眼科にはドライアイ用の目薬をもらう為だけの通院 となっていた頃である。


 臨終には二人の姉達もきっちり 寄り添っていた。
 上の姉が父に向かって「ありがとう!ありがとう!」を連発していた。
 下の姉も「ありがとう!ありがとう!」と。


しかし、私は胸いっぱいで言葉が出なかった。
いつも「雄弁は銀 沈黙は金」「以心伝心」を良し と教えていた父である。言いたかったが言えなかった。
 気のせいか治療を終えた筈の右眼がうずいていた。正直言って、もうこれ以上厄介な病気を持って来るのはやめて欲しい気持ちもあった。
 「ありがとう」の言葉掛けをしなかった点で 姉から攻められたが
私は ただ黙って姉の怒りが静まるまで待つしかなかった。


 遺産の残りは全部 上の姉が持っていった。私は、父の財産を全額は使い込まなかったのである。今でも不思議に思っている。
 一番父親の近くに住んでいた私が 父の介護を始めた時、上の姉は
「(下の姉の名)ちゃんも、もう 財産は全部 蔦ちゃんがもらったらいいから、って言ってるから」と さも自分も 同意している様な雰囲気を漂わせていたのである。
 毎晩7時になると上の 姉から電話が入る。姉宅は夕食や片付けの終わる時間帯である。
 父の生活援護に関して、上の姉は 私に様々な指令を出した。
 「要らない物はどんどん捨ててね」「証券会社に残っている株は売却しといてね」
「駐車場を貸してくれている青空さんには 何か買って お礼を渡しておいてね」
ちょうどこっちの家が夕食に入る時間帯である。約30分。
 何度も こっち側の夕食時間を告げても  7時に掛けてきた。私の食べる夕食はいつも冷めてしまっていた。


そしてまた、上の姉も 下の姉同様に 自分の身体を犠牲にしてまで
父を見舞うことは無かったのである。当時 私と同じく体調の思わしくない上の姉は、はっきり言っていた。「私は病気だから行きたくても行けないのよ」と。
しかも 姉は車は運転できない。亭主さんをアッシー及び助手に こき使って父を訪ねるのであった。


しかし、本当に人間とは勝手なもので…上の姉は 私が父の財産を使い込んだ時
 「アンタのやった事(介護を意味する)は そんなに値打ちのあるもの と思っているのか!?」と私を罵倒した。
おそらく、上の姉も私のしんどさには気づかなかったのだろう。
お互いに 自分の行った功績は覚えているけれど 相手の貢献には気づかないものなのだろう。そんなものとは思いつつも…あの言葉は忘れられない。


 幾つかの法要の後


 私は新しい趣味を見つけた。
 部屋に棚を作って 様々な木工作品を作る趣味だった。
 誰に習うでもなく、ハンド鋸や 彫刻刀・サンドペーパー・ニスでインテリア小物を作り上げる。木材は近くのホームセンターで調達する。モノ作りの好きな私には 持って来い の趣味だった。


 外出しなくていいから 交通事故の心配も無かった。
その木工細工をしている時間、私は 嫌な事は全て忘れて趣味に没頭することが出来た。


お福は「楽しそうやなぁ」と眺めていた。
これだ、と思った。私が生活を楽しめばいいのだ。

トンネルの中

お福の主治医は、結局のところ
彼女自身が14年ほど前に自ら見つけて通院していた町医者の精神科に決めた。お福が通っていた頃は「お爺ちゃん先生」が現役で診療していたが 現在は息子さんの代に変わっている。
カルテはお爺ちゃん先生の頃から 継承されていた。



【お福が、「今 食べたお菓子には麻薬が入れられている。私はソレを食べたので死ぬかも知れない!」と言って 自分で救急車を呼び、
病院からの帰りに 私にSOSメールを発し、
私には「お父さんと太郎に誘拐されて外国に売り飛ばされる!」と言った夜に
太郎と次郎、私とお福、四人で門戸を叩いた医院だ。


最近 太郎に聞いたことだが、「あの頃は誰が見てもおかしかったよ。顔つきも全然変わっていたし。。」だった。


私には普通の顔にしか見えなかったのは 私が無神経だったから か?
お福が猫を被っていたから か?
ただ、狭小住宅で世話していた時、何か憎しげにギラリとお福の目が光る瞬間があった。人間の目ではなかった。何か邪悪な獣の目の様な感じがして、心の隅にずっと引っ掛かっていたものだった。現在は そんな「目」は無い。ともかく…】


ともかく…障害年金受給の為の診断書も書いてもらった個人開業医だ。
お福は必要量の薬を飲み、マンションの一室で ほとんど「寝たきりヒッキー」となった。
起きるのは トイレ、食事の時だけだった。
お風呂も入らない日の方が多かった。ぐんぐん体重が増えたのは言うまでもない。長い髪はからまってダマが出来ていた。
久しぶりに美容院に連れて行った時、その塊りを解きほどくのに 美容師二人がかりですいていた。


お福をマンションに迎えてから、彼女の病気と闘っているのは
他でもない、本人でもない、この母親の私 の様な感じがした。
漢方薬・マッサージに加えカウンセリングも受けさせた。


しかし、徐々に…
・「医者からもらった薬に加えて 漢方薬を飲むのはしんどい」
・マッサージ店は客足が伸びず閉店した。
・カウンセリング……「何を話せばいいのか分からない」


次第に私の闘争心は冷めていった。。
いつの間にか、一切関わらない方がいいのではないか?
ああせよ こうせよ は言わない方がいいのではないか?
正直、そう考える方が 私は楽だった。



私は食事・洗濯・掃除(最低回数)など 最低限の身の回りの世話をするだけになった。
朝 起こすこともなく、風呂を強要することもなく、食事時間さえ彼女自身に任せた。食べ物と飲み物はいつも保温箱に入れておいた。


出口の見えないトンネルの中に居るようだった。手すりもない。非常灯もない。
手さぐりで進む。しかし その方向が正しいかどうか さえも分からない。
私にとっては暗黒のトンネルである。


私一人で また違う精神科を訪ねた事もあった。
その医者は「うーん…お母さんは何を優先するべきか、混乱されているみたいですね。締めるべき処は締めなきゃいけないんですよ。(起床や就寝時間のことかな?)
それと、この病気はですね、年単位で考えなければいけないんですよ。」
この言葉は今でも記憶に残っている。



ただ、お福は 私が買った一冊の統合失調症の本を バイブルの様に枕元に置いて読んでいた。
「これを読んだら安心する」 そう言っていた。

ジリジリの焦燥感

私の好きなことはヒップホップを踊ることである。
もちろん 自分で振り付けなんか創造出来ない。


インストラクターが教えてくれるまま…、
いや  彼・彼女達の指導通りに身体が動く筈はないが、指導をあおぎながら音楽に乗って躰を動かす・汗を流す…私が楽しんで夢中になれる数少ない所作だった。


認知症の老父の世話をしながらも、
お客人になっているお福の世話をしながらも、
バセドウを発症しながらも、
ジムに通い、そのヒップホップの基礎となるパワーヨガやエアロのプログラムを受ける、それだけが私の心を癒していた。


「甲状腺眼症」は その趣味を奪い去った。
(いや、無理をすれば やって出来ないことはない と今でも思うが…)


私は失望した。
正確に言うと、失望しながらも いやいや やる気になれば何でも出来るんだ!と闘争心を燃やした、と表現する方が当たっているように思う。
しばらくの期間は、夫の商売を手伝うようになるまでは 無理してジムに通っていた。


介護うつがどんな症状を引き起こすのか 正確には知らないが
私は父を見舞うことが怖く、つらく…病室に入るのがひどく苦痛になっていた。
かたや 眼が不自由になってもジムに行く、
ジムには行くくせに 父親の見舞いには行けない、
あれほど財産をくれた父親である、尽くしても尽くしきれない父親なのに…
寝たきりだからこそ 顔や手を温熱タオルでぬぐい、脚をマッサージして筋肉の硬直を防ぐべきなのに…
毎日 見舞うべきなのに 怖くて行けない、病人の身体に触るのが怖い。すぐにサボってしまう。見舞えない自分を責めていた。毎日 ジリジリした焦燥感があった。


そんな私のつらさは下の姉には見えなかったのだろう。
下の姉は器用な方で、何でも「出来る」部類の人間である。自分の身体を犠牲にすることなく、上手に私を助け 父を見舞っていた。
甲状腺眼症の詳細を知り、斜視手術を受ける事が出来たのも 姉がネットで「甲状腺眼症」の本を買ってくれたお蔭である。
姉は「もらう物だけもらったら お父ちゃんを放ったらかしにした」
と後日 私を攻めた。
私が眼症を患ったのも 父の財産を勝手に使い込んだ「自業自得だ」とも言い放った。
下の姉は、父から私がもらった財産の金額を上回る財産を 数十年も前にもらっていたにも関わらず、だ。あの言葉は忘れられない。



一方、お福の方には 人に「西洋の精神病薬は肝臓に負担をかけますよ。漢方薬の先生を紹介出来ますから 一緒に行きませんか?」との親切な言葉に心を動かされ、
そんな遠方には行けないけれど…、近くの漢方薬局にお福を連れて行った。
高価だが 今服用している薬と併用してもいい、沢山の漢方薬をお福に強いた。


治るまで3~4年かかると言われた お福の病気 「統合失調症」、それを私の力で1年で治す気力だった。
徒歩圏内にマッサージ店もあったので お福を連れ出し、私は料金の安い顔マッサージだけ、お福には全身マッサージを受けさせた。


今 思えば・・何もやりたくない、薬の作用で躰がだるい お福にとっては、随分ハタ迷惑な母親だったろう。


その頃は…常に焦っていた。やるべき事柄があるのに 出来ない。しない。そして、そんな自分を責める私が常に居た。


寝ている時、ふと目覚めると… 寝ている筈なのに 歯を食いしばっているのが分かった。

燃える女

「幻聴が聴こえる」


その一言を なぜ もっと早く言ってくれなかったのか、と思わないでもないが
自立支援塾に行った時、一晩中 幻聴に悩まされながらも 母親の私にさえ打ち明けてくれなかった お福。


そんなお福が幻聴の事実を打明ける気になったのは 何故か?、まだ現在のところ
訊いていないので 分からない。


しかし、私は思う。
あの ぼろアパートの異常な店子さんの生活、その暮らしぶりを見て「同じ一人暮らしでも ワタシの方がマシだわ」と思って告るきっかけになった としたなら…
あの店子さんは「天からの使い」だったに違いない。



お福が 真っ当な服薬を始めてから二週間目になり、必要量の薬が処方され始めると
私はさっさと 「医師免許を持った人 その②」は切り捨てた。


いや、正確に言うと障害年金受給の為の診断書をもらった後で 切り捨てた。
私は統失の本 三冊から障害年金の知識を得、闘志を燃やして それこそ ぼろアパートではなく こちら地元の市役所、保健所、受診歴のある精神科医院を駆けずり回った。
眼は見え辛さを増していたが アゴを少し上に向ければ なんとか車を運転することが出来た。
診断書は二ヵ所の精神科で書いてもらい、初診日から一年半(だったかな?)の日付までさかのぼって、障害年金は何ヵ月か後に お福の口座に振り込まれた。250万余り 振り込まれたと思う。
「なんで こんな大金 もらえるんや?」
お福から、入院中の私のケータイに メールが入ったものだった。



私は 頑張り過ぎていたのだろう。
いや、やはり 二人の病人を抱える事は相当なストレスだったのか
バセドウ持ちだった私に 降りかかって来たのは
今度は「甲状腺眼症」だった。
普通 バセドウとくれば 眼球突出が有名だが、この眼の病は 高齢者に多いのが眼球を動かす小さな筋肉が炎症を起こし、眼球の位置が狂ってしまうことだった。
下直筋とか言う筋肉がビーフジャーキーの様に固まって肥大化したようである。
一旦硬直した筋肉は もう元に戻らない。


私の場合は その度合いがひどかったようだ。右眼の方が大きく下に傾いた。
もちろん 物は二つずつ、歪んだ場所に見えた。複視と言う。
まともに両目を開けていたら道も歩けない。何も出来ない。
約一ヵ月のステロイドパルス治療、その後の放射線治療、
それでも治らなかったので 最終的には斜視手術を行ってもらった。
手術はしてもらったものの、眼は健康時の様な状態には戻らなかった。今でも右眼が少し下にずれている。
視力も落ち、なにより 動体視力が著しく低下しているので 普通の外歩きさえ脳疲労を起こす。見ること自体が 常に負荷がかかるのである。


これは私には決定打となった。。。